昭和41年04月08日  朝の御理解



 一つの事が願い願い、その願いが成就するということは、その実行力によらなければならない。どんなに素晴らしい願いがうち立てられても実行力が伴わなかったら、それは、ただ空論に終わってしまう。そりゃ良い考えですね、というだけに終わってしまう。そりゃ良いことですよ、というだけではいけん。それが、早速、その実行力。
 昨夜、昨日おとといからですかね、学生会の方達が徹夜をいたしまして、丁度まあ24時間、2回目の、毎月1回の新聞を発行しておりますが、2回目の学生新聞が昨日ガリバンですけれども、それがま刷り上がった。本当にまあお粗末なもので御座いますけれどもその内容たるや、私はこりゃもう学生会の新聞じゃないなと、こう思いました。こりゃ、もう今の椛目の信心を、まあ、ある意味で、あますところのないほどに。
 この幼稚な表現ではあるけれども、新聞、いわゆる活字に現しておるというふうに、ま、感じるんですね。ほんとにあの、若い人達の、その一つの理想をです、実現しょうとする、その実行力には頭が下がります。もう敬服致します。なら、その記事を集める事から、まあ何からかにまでを一切、学生会の方達の手でもってやっておるんです。それに、昨日ちょうど、総代会がございましたもんですから、ま、総代会の、その話し合いも、まあ、それが中心であった訳じゃございますまいけれども。
 まあいうなら、こう尻を叩かれたというような感じです。総代さん方がこりゃなんとか方法もって、せっかくのこれだけのことをするなら、まあプリント社にでも頼んで、もっと立派な新聞にして出すような応援をしたらどうだろうか、というような話し合いになって、まあその今日は早速そのことをあたって下さる事になってるんですよね。そして私はよくよく思うのには、こりゃもう学生新聞であってはならない。
 その何と申しますか、その学生新聞を発行致します時に、新聞名を何とか頂きたい、というのが、あのご承知のように、「ねがい」という新聞なんですね。「ねがい」の「ね」というのは木の根の「根」であり、「が」は賀正の「賀」であり、「い」は「以て」と、こういう「賀びを以て根とする」という。こりゃもう信心の根本的なものなんですね。一切がその「おかげは和賀心にある」という、その賀び賀びを以て根とするのであり、賀びを以て根底とするのであり。
 そこから思いもかけないおかげが進展して来る、ということなのですから、こりゃもう、学生会の方達の一つの実行力がですね、これは、椛目全体の、椛目の新聞と、あれを見れば椛目の信心の動向が、内容が、分かるといったようなものに、こりゃなっていくのではなかろうか。その御用をまあ端を切ったのが、学生会の方達の、一つの熱意であり実行力であったというふうに感じるのですね。
 こりゃ例えば、あの明治維新の大行が当時の若い青年層の中から、その火蓋を切って発せられたようにですね。このお道の信心においても、またこの椛目の信心、いよよ合楽教会というようなことになってまいります、その前夜の何か一つのそうした息吹といったようなものをです、あの学生新聞の中から感じるのです。そりゃもう本当にお粗末なガリバン刷りです。読むにもよっぽど判読しなければ読めないような、まあ、つたないものですけれども、ね、その志しとするところ、意とするところというのは、私、本当に有り難いものである。
 特に昨日の朝、朝のご祈念の昨日、そのことを言うておりましたが、その朝の朝参りをなさる皆さんの一人一人というが、そのまあ役員会の方達にインタビューをやってるです。とそれを一口づつ聞かせてもらって、その書いて何かもう実に生き生きとした椛目の信心が浮き彫りされた感じで御座いますね。そして本当に神ながらにおかげ頂いとった、ということは、椛目の会の、まあ言うなら代表的な人たちが、昨日は皆、朝参りしとったもんですから、その一人一人の方たちにその事があのでてる。
 例えば総代さん、永瀬さんが菊栄会にはちょうど山田さんがおかげ頂いて、婦人会には内田さんでしたでしょうかね、原さんに、美登里会に原さん敬親会の中村さん、壮年部会の福島さん、でした。それぞれにです、各会の方達がまあ、一口づつ、その椛目に、あ、それから婦人部会の熊谷さんあたりも、あらゆる椛目の相の方達を面立った所の朝参りの、いわば心境というか、どうゆう訳で朝参りをなさるんですかといったようなことに問いに対して、それを答えておられる。
 あれを見ただけでも、椛目の信心が躍如としておるものを感じるのです。例えば永瀬さんの、まあ一口の言葉が書いてある中に、もう私は何にもありませんて、ただ、あの親先生のご修行に対して、こうさしてもらわなければ、お参りさして貰わなければおられんのです、というような一口。しかも、それが、あのご造営という事がなされたあの時から発心一気してその事を実行しとりますかと青年部の堤清さんのもうとにかく、あのお参りをさして頂くことがその楽しみだと。
 どうゆう事が楽しみかというと、勿論おかげを受けるということもそうなのですけれども自分の心の上に改まっていく、本気で磨いていく事の楽しみが朝参りによってでけて来たといったような事がですね、皆さん今日でけておりますから、どうぞ早うお読み下されば良く分かるんでございますけれども、それが本当に、あの椛目で私が、もう繰り返し繰り返し説いておる。椛目の信心の中心、これでなからなければならんという所をめいめいにキャッチしてです。
 中村さんなんかは十五年間こうして朝参りをつづけておるんですけれども、信心とは親先生が、いつもおっちゃる、ね、一年一年信心をしておればありがとうなると仰るが本当に一年一年ありがとうなって行く事の楽しみが、このまあ。もう七十にもなります私が、朝参りをさして貰わなければおれんのですといったような、その、その時の言葉が、そのままに書いてあるわけですよ。
 それを読ませて頂いてから本当にありがたいな、いよいよいわゆる、その新聞名の、その(根賀以)というのは私共の願いではない、いや私共の願いも勿論のことですけれども、神の願いがああした学生会の一つの実行力によってです、現わされて来た。もう前々からですね、椛目の信心をそうゆうふうに新聞にでもといったような話はあったんですけれども、その実行力が無かった。それを若い人達の一つの爆発的な勢いがです。そりゃーつたないものです。幼稚なものです。
 けれども、それがやはり一生懸命の努力によって、まあ形を整えて来ておるということです。そこに、総代さん方が動かなければおられない、そうゆう方々が動く事になれば、これは椛目を中心にした立派なものになるでしょう。その編集から、御用から、こりゃ、もう学生だけには任しておかれん。勿論学生会が中心になると致しましてもです、ね、そういうようなことになって来ると、これは、その椛目の小さいささやかな、その新聞がです、全教の上にも認められるような事にもなって来るはず、その発端と、ね、導火線というような事になって来るようなものを感じるのです。
 例えばご造営の事が、着着としてああして進められて、あれが実際なされて行きよると。成程あれは、十三日会の方達の、あの実行力がなかったら、あのご造営はなされていません。いや、それだけではなされていません。今度ここに独立することはですね、先日も私申しましたですけれども、いらい総代さん方が、朝のご祈念に参拝されると同時に、銘々のお届けは別として、その事に対して。
 特別の総代一同としての、お届けがあっておる事。ですから、私は、もう総代さんあなた方が、こうやってそのことに対して、特別のご祈念を捧げて下さるという事は。お取り次ぎを頂いて下さるということは、ね、私の信心にも、とても、あのご造営、私の信心などでは、とても支えの出来ないような大変なことなのですけれども、どのような結果になりよりましても、その結果はです。
 必ず、おかげの結果にしかならんという現在の状態が、どういう状態でありましても、結果は必ずおかげにしかならんと皆さんの祈りに支えられておるんだから皆さんの祈りを私が取り次ぎがさして頂いておるのだからという確信をもてるというて、まあお話をしたことでございますけれども本当にそうなんです。そういう総代さん方の熱心な、その信心がですね、このご造営の事のさまざまな形に現れて来る所の、まあ、おかげになって行きよるのですけれども。
 それを本当に実行力の上に現わしたのが菊栄会でした。あの、現わしてまた現在おるのも菊栄会です。これは、何ていったって、そのあれがなされる事のためには、まず先き立つものは金でございます。ね、ですから、あー菊栄会の方達が、例えば一人が百万円といったような目当てで実際に実行しているですよ。ですから、それがあるから大きな事がこう動いていきよるという感じが致しますです。
 勿論、椛目全員の方達の真心が集まって(   )されていきよるのですけれども、ははー、この人どんが、これだけはまってくれるなら出来るぞ、そういう気がするんです。口でこそ百万円ですけれども。まーだいうなら壮年とも椛目の中心ともつかない人達の集いなのです。ね、が、例えば、やはり若い人達の力ですよ。もう、その変りに、もう自分の、その今の、いうならいま儲けるぞといったような勢いがです、実際、それが、それぞれに実行力でけておるということが有り難いでしょうが。
 ですからもう、ですから菊栄会の、この者が集まったら、もうその事だけなんです。ですから、そういうその、やはり、実行力がともなわなかったらです。結局どんなに素晴らしい教えでも、それは、空論に終わってしまうと。日頃のみ教えを、今こそ生かさなければ、いつ生かすか、というような一つのおかげ、それがです、例えば総代さん方のそういう祈りに祈りに、そういう一つの実行力が、思いがけないところから、こう形が現れて来るようなです。
 働きが今後ともなされて行くに違いないと思うのですけれども、とても私は信心に実行力を(   )であってはたいした事はできないということ。ただ、何というですか、棚からぼたもちが落ちるようー・・?てその上ばかり拝んでおるような信心ではなくて、もうそれこそ地に這うような思いでです。地にひれ伏したような信心を持ってです。しかも、そのことが本気で実行に移されるいうところにです。
 それが、それは僅かなものでありましょう。又、幼稚なものでありましょう。けれども、私は、その学生諸君、又、その菊栄会の連中のそうしたひとつの実行力をもってです。しかも、その団結した実行力をもってです、それがなされていきよる。それが大きなおかげの原動力、元になって行きよると思うときです。もう一つ本気で教えを行じさして貰う、その実行力を打ち出さして貰って。
 御用に使うて頂き御用に立って行かなければならん。それが、一人の助かりだけではなくてです、いうなら椛目全体が助かる、いうなら団体が助かるということにまで進展して来る。ね、その原動力をま、そのまま、まあ期せずしてです、若い、その方達にそれがあるということは本当に頼もしいことであるというふうに、まあ感じるのでございます。これは、なら年を取っておれば。
 もう何もでけんかというとそんなことではありません。ですから、その、それぞれの信心を再見当さして頂いて、ね、そしてふんぎりを付けるところにふんぎりをつけさして貰うて、いよいよそのことが、まあ敢然として実効に移されるようなおかげを頂かなければです、神様の本当の働きというか神様の動きというものが、そこに感応することがでけないのではなかろうかと。
 ただいうておるだけではつまらん。それよりも実行に移すというところ。そこからです。例えば、学生新聞の、その願いというのがそういう、まあ、幼稚な方法で新聞が発行されていきよるのがです、これがだんだん垢抜けして来る新聞にして行かなければならんという働きがです、いわば総代さん方の上にも起こっておるといったようなことから、それを感じますですね。
   どうぞ。